青春の1ページ              

ある大学生から卒論のテーマで青年海外協力隊について取り組んでいるということで、アンケートを依頼されました。それに答えているうちに、ひとつのある程度の文章になったので、「青春の1ページ」と題して、自己紹介を兼ねて公開することにしました。時間の許す方は、お読みください。

 私は、平成3年7月から平成5年8月までの2年1ヶ月、青年海外協力隊員としてインドネシアでソフトボールの普及活動ということで、インドネシア各地で現地の人々と一緒に白球を追いかけてきました。それは、協力するというよりも、多くのことをインドネシアから学んだ貴重な経験でした。

青年海外協力隊平成3年1次隊 
派遣国:インドネシア
職種:ソフトボール

大槻秀樹

1. 参加前
 
協力隊を初めて知ったのは平成元年です。私は、小さい頃から外国に興味がありました。小学校4年生の頃、友達を集めて野球チームを結成する時、「日本で優勝するとヨーロッパにいけるぞ!」と言いながら、仲間を集めた事が、思い出されます。以前から日本とは違う社会の発展途上国には,薄っすらと興味がありました。平成元年の冬休み、一人旅でフィリピン旅行に行きました。そこで、貧富の差、人々の活気のある生活の様子など今までの日本の生活では、気づかなかったことに触れ、どうしてこんなにも国によって違うのかと、より興味を抱くようになりました。それで、今度は旅行ではなく、実際に住んでみたいという気持ちが起きてきました。そんな中で、住むための方法はないかと探したところ、青年海外協力隊の存在を知り、チャレンジすることになったのです。協力隊に参加する前は、地方公務員(学校事務)をしていました。協力隊への参加は、退職参加です。自分の正直な気持ちを言いますと、自分自身は帰国後、元の職場に戻りたいという気持ちが強かったわけではありませんが、当時2歳の子供と妻を日本に残し、家族、親、親戚などの「帰国後どうするのだろう」という周りの心配する気持ちを考えると、形状は、現職参加(帰国後元の職に復帰)したいということで、協力隊に参加できないかと、県や教育委員会などに相談したりもしました。当時は私の仕事内容(事務)と協力隊での活動内容(スポーツ)とは、違うとのことで、現職参加は認められませんでした。私のことが機に、今は制度が改正され、宮城県では、公務員の現職参加が可能になりました。私は、公務員として810ヶ月勤めましたが、なんか先が見えてしまって、新しい刺激がほしかったのかとも思います。公務員でいれば、生活に何の不安もなく、一生安心だし問題ないのですが…。特に田舎では、公務員というと安定しているし、うらやましい仕事と思われているようで、自分が退職するということになると回りの皆は、心配して「辞めると後悔するぞ。辞めない方が良い」と言ってくれました。しかし、わたしの気持ちは、皆とは反対でした。このまま、あと30年公務員を続けて、例えば、退職金3,000万円もらったとして、退職する時に、できることなら、その3,000万円を支払っても30年前に戻りたいと思うはず。そう考えると(若さは、お金では買えない)今やりたいことにチャレンジしないと絶対悔いが残ると思いました。それで、自分は、「30年間の公務員生活を無事終了し、まさに今、3,000万円支払って、30年前に戻ったんだ」と考えました。「公務員人生は終わって、私は1度死んだんだ」と。「これからは、どんな人生が待っているのか解からないけど、2度目の人生を生きれるんだ」と自分の心の中で、気持ちを整理しました。
 当時、子供はまだ1人、両親健在ということを考えると、子供が増えたり、両親が病気がちになったりしたら、協力隊への参加は、より難しくなるので、今しかないと周りの方々には、迷惑をかけるのは百も承知で自分のわがままを通しました。本当に感謝しております。
 青年海外協力隊とは、相手国からの要請によって派遣され、隊員の技術・知識や経験を活かし、開発途上国の人々と共に活動し、相手国の発展に貢献するという国際協力事業団(JICA)の事業です。私が、協力隊の受験で選んだ職種は、ソフトボールでした。ソフトボールを選んだのは、受験資格条件を照らし合わせてみると条件を満たしていたからに過ぎませんでした。とにかく協力隊に合格して発展途上国と言われる国々に行ってみたいというだけでした。野球は小学校からやっていましたが、本格的なソフトボールの腕前など全くありません。ソフトボールといえば、レクレーションでやるレベルの程度のものと考えていました。協力隊の受験資格は、3年以上のソフトボール指導経験ということでしたので、幸い中学校のソフトボール部の監督をしていましたので、受験資格は満たしていました。初めての受験は1次試験の筆記試験合格後、日本体育大学で、実技試験を受験しました。バリバリの男子大学生選手のボールを打たされたり、ピッチングさせられたりしました。受験後の感想は、「ソフトボールを嘗めていたな」という感想でした。その時の受験者は20人程度いましたが、合格者なしでした。受験者と話してみると、甲子園に出場したことがあるなど野球は経験しているが、ソフトボールでの経験は、ほとんどなく、私と同じように「ソフトボールなら合格できるのでは」というような甘い考え方だったようです。そういう中で私は、試験とは関係なく、隣のグランドで女子選手が練習している姿を見て、「自分より体の小さい女の子があんなすごいボールを投げているのだから、自分も真剣に練習したら絶対に投げれるはず。」と単純に考えました。帰宅後、次回の試験を目指し、早速、雨の日でも一人でも練習できる場所はないかと市内を探し回りました。なかなかよさそうな場所は見つかりませんでしたが、探してるうちにバイパス道の架橋下の広場を見つけました。それから毎日、壁にボールをぶつけピッチング練習を始めました。朝早くあるいは夕方など時間を見つけては、そこに練習に通いました。近所の人達は、「いい大人が毎日朝早くから壁にボールをぶつけて、物好きもいるものだ」と思っていたのではないでしょうか。ボールを壁にぶつけると朝早いこともあり、結構、回りには響くんですよね。でも、おかげ様で、ある程度のレベルに上達したと思います。近所の方々には、この場をお借りして、お詫びとお礼を申し上げたいと思います。「ごめんなさい。そして、ありがとうございました。」(^:^)"

2.駒ヶ根訓練
 77日間行われた訓練には、日本中から色々な特技・技術を持った人達が、それぞれに夢を持って集まって来ました。当時は、このような人達と友達になれただけでも、「協力隊に参加して良かった」と感じるほど刺激を受けました。学校に勤務していた頃は、私もまだ若輩者ということもありましたが、同僚の先生方と本音で心を割って話すことはできませんでした。それなのに協力隊に参加してきた人達とは、不思議と話ができました。やはり、考え方に近いものが、あったのでしょうか?訓練期間中は、日記の提出を義務付けられていましたが、毎日「やるしかねえ〜」と書いてた記憶があります。

battery

3.活動中
 インドネシアに着任後、まずは、西ジャワの州都バンドン市にあるパジャジャラン大学で1ヶ月の語学訓練がありました。
ここで、早くも私は最初の試練にぶち当たりました。激しい下痢と腹痛に襲われたのです。それで、1週間程度出席しただけで、語学訓練を断念し、日本人医師のいるジャカルタの病院での診察を受けることになりました。診察の結果は、アメーバー赤痢と診断され、協力隊の連絡所で休養をとることになりました。体調が治ると同時位にいよいよ協力隊活動が、始まりました。
 最初の活動場所は、インドネシア女子ナショナルチームのコーチということでした。ここでの指導は約2ヶ月間ですが、恵まれた環境の中で、何不自由ない生活は、自分が想像していた協力隊活動とは、かけ離れていました。それでソフトボール協会と話し合い、地方のソフトボールチームを教えるということになり、2ヶ月間位ずつで、インドネシア各地のジャワ島、スマトラ島、スラウエシ島、などに巡回指導しました。その後1年くらい過ぎてから言葉もだいぶ覚えてコミュニケーションの問題もなくなったので、ソフトボールの全くないところで普及活動したいとういう私の要望をかなえてもらい、バリ島で1年間、用具を見るのも初めてという人達を相手に全くゼロからのスタートをしました。市内6つの高校を選び、練習を重ね、その6高校の男女12チームで大会を開催したときにはバリ島で新しいスポーツが始まったと、テレビ、新聞で報道され大変な盛り上がりをみせました。苦労はありましたが、すべてが、私の計画にもどづく、活動でしたのでやりがいはありました。
*現地での活動内容について、あまりに少ないので、時間を見つけ、今後少しづつ書きたしていきたいと思います。
  
4.帰国直後(復帰)         

 帰国の際は2年間の情報の遅れなど、多少は、苦労もあったかもしれません。また、日本の忙しい社会と他人に対して無関心というか、人々の疲れた表情に違和感を感じました。でもこれからの協力隊員は、携帯電話、インターネット、衛生テレビなどの普及により、世界中どこにいても、以前よりは、情報収集も容易になり、帰国後のギャップは小さくなると思われます。
 仕事については、自分ではうっすらと自分で何かをする以外に道はないという気がして覚悟していましたので、特に苦労話はありません。私の場合、協力隊での経験を生かしての職探しは困難でした。というのは、結局、自分の場合は職種がソフトボールということで、職種と結びつくものはありませんでした。ソフトボールで食べていけるなんてないですよね。
2年間の協力隊生活の中で多くのことを学んだインドネシアと何らかの形でかかわっていきたいというのが、私の強い希望でした。その中で、現地で協力隊のお世話をする調整員とかになれないかとも考えましたが、調整員も2年間の契約職員なので、これ以上、家族に心配かけるわけにもいかないと思いました。帰国後、半年くらいは、講演の依頼があったり、忙しかったり、あっとゆう間に過ぎました。帰国するまで私も知りませんでしたが、気仙沼という町はマグロ漁業を通して、インドネシアと関係の深い町でした。私が帰国した時、気仙沼の地方紙に、私の帰国記事が載りました。それを見たある漁業会社から話がありました。「そのうち何かお手伝いをしてもらいたい」ということでしたが、その後、音沙汰なし。半年くらいが過ぎ、「そろそろ自分でやるしかないか」と起業する事にしました。「1年間起業に挑戦させてくれ」ということで、インドネシアからの雑貨を輸入し、販売する仕事として、一人でバリアイランドをスタートしました。こっちの方が、皆心配だったと思います。とにかく自分の性格上、自分で起業するという選択肢しかありませんでした。組織活動は向かないようです。自分で思うようにしないとだめなようです。
 
2年間の協力隊の中で、イリアンジャヤという山奥の地方の指導にも1ヶ月間ですが行きました。そこでの生活レベルは、食べるのもやっとという人達もたくさんいました。そんな人達の生活を見ていると日本にいると言うだけで幸せと思えるようになりました。自分は、あと何ヶ月後には、日本に逃げ帰ることができる。でもこの人たちは一生ここから逃げることはできないと思うと本当に涙が出てきました。「事業に失敗したところで、たいしたことではない。インドネシアにもどればいい」という気持ちになりました。楽天的な性格なんですよね。いざ、仕事を開始したといっても、右も左も分からないゼロからの出発です。とにかく、インドネシアに関わっていきたいと言うことだけで、インドネシアの民芸品、雑貨など輸入して、いろいろなイベントでの直接販売や卸売りなど手探り状態で始めました。今思うと大変でした。よく一人でやっていたなという気がします。でも当時は夢中でした。家族のため頑張らなくてはと思っていましたし、少しずつですが、売れるようになってきましたので、やっていけたと思います。当時は、2〜3年続けて資金をためようと考えていました。悲惨だったのは、輸入品フェア−ということで青森県八戸市まで行きましたが、売上は1日わずか2,500円程度、宿代もできず、1週間、車での宿泊、お風呂は銭湯。三食コンビニ弁当orほかほか弁当ののり弁。それでも体は維持しようと朝早く起きて、近くの広場などでジョギングは、していましたが、ハハハ。
 現在は、上述の漁業会社のインドネシアとの通信業務や出張などを臨時職員の身分で手伝ったりもするようになりました。

 また、今年から4月からバリアイランドという名のホームページでもインドネシアからの雑貨の販売もしています。

5.反映
 物質的には恵まれない人々の生活を見て、この人達の思いをすれば何でもできるし、やらなければいけないという、強い気持ちとお金には換えられない多くの出逢いがありました。仕事で、インドネシア語や現地人知人のネットワーク情報は役に立っています。また、自分の行動に自信がつきました。世間を気にすることなく、自分のペースで行動がとれるようになりました。無関心という意味ではありません。前向きに、楽観的に、物事を考えることができ、くよくよしないようにもなりました。協力隊の同期やOBの方々とは、居住地がそれぞれ遠いということもあり、頻繁に行ったり来たりはできませんが、インドネシア同期の隊員とは、上京の際など、都合のつく人が集まったりして思い出話や近況などで盛り上がっています。 
 このほかには、やはり、視野が広くなったといいますか違った角度から物事を見れるようになったと感じます。日本社会だけで暮らしていると、これが普通だと思っていたことも、逆に日本の方が変だと思うようなこともあります。日本人はとかく、予定通り生活していかないと不安な人種のようですが、世界で暮らす人々の多くは、予定通り行く方が、おかしいし、明日の食料のことも心配して生きています。マスコミでは、不況不況と騒いでいますが、今の日本では働かなくても、1〜2年問題なく生きていけるはず。雨漏りもしないところに住んでいるんでしょう。海外旅行は毎年、過去最高の記録更新。これは、途上国では夢のまた夢です。あまりあせらず、1年や2年休んで不断出来ない事でもしたり、学んだりしても生きていけるのに。それができないのが日本という国だから可哀想ですよね。インドネシアにいる時、日本で仕事を失ったお父さん達の自殺が増えているという新聞を読んでいたインドネシア人が「どうして、会社を辞めたくらいで自殺するのかね。インドネシアに逃げてくればいいのに」という冗談が印象的でした。インドネシアは日本と比べると貧しいのに、何故かみんなニコニコして、心にゆとりが感じられます。日本にいると、とかく流行とか世間体とか回りに左右されながら生きていますが、地球上には色々な生き方があり、何も全て日本が正しいわけでもなく、逆に進歩しすぎた、あまりに恵まれすぎてものに溢れた日本の方が特殊と思えることも多々あります。あるテレビ番組で、原始的な生活をしている生活者を映し、馬鹿にしたような内容で、せめて人間的な生活をさせたいみたいなことをみんなで話していましたが、本来の人間の姿は、裸足で野山や川で、動物や魚など捕って生活していたのだから、それが、変わりに変わって今の日本のようになってしまったわけだから、ある意味では
1番人間らしくない生活をしているのが日本人のような現代人だと思います。どちらの方法で暮らそうが、大きな世話だという気がします。
 帰国当時、半年くらいは、講演の依頼などを受け、学校、PTA、公務員研修会などで講演したことがありますが、残念ながら今は、国内での国際協力関係のボランティアの機会は、ほとんどありません。ただし、2ヶ月に1度くらいのインドネシア出張の時には、ソフトボールの古用具や古着などを持参して配ったり、時間があるときは、現地の学校で子供達にソフトボールを教えに行っています。今後も多くを学んだインドネシアに恩返しができるよう、何らかの形でこれからもインドネシアに係わっていきたいと考えております。

*最後までお付合い頂き、ありがとうございました。
  ご感想・ご意見など何でもかまいませんので、ありましたらお聞かせください。
  尚、現在使わないで眠っているバット、グローブ、ボールその他のソフトボールまたは野球用具 ありましたら、何でも構いませんので、ご寄付願います。よろしくお願い致します。
                                               
◎トピックス◎
 2003年11月26日、宮城県気仙沼向洋高校野球部様より、大量のオールド金属バット・グローブ・ボールを頂きました。
 確実に現地インドネシアに届け、活用させて頂きたいと思います。現地のみんなは、きっと大喜びすると思います。
 ありがとうございました。             

バリ島に届けてきました!
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